私の母親。。。。
私の母親は、戦争のころに小学校に行っていたようです。尋常小学校です。戦争があったため、疎開をしていたようです。どこの尋常小学校だったのか知りませんが、私が生まれた時は、親が残した家に住んでいたようです。蒲生四丁目の路地裏に家はありました。母は、小学校だけ出てアンプルを作る仕事をしていたようです。当時は技術職だったので、結構な収入があったようです。父は、四国から親とともに大阪に逃げてきたようです。中学までの学歴だったそうですが、若くして会社を興しました。
父と母がどうやって知り合ったのかは知りません。父はまだまともに収入がなかったようで、両親を亡くして一人暮らしをしていた母の家に転がり込んだようです。母は先を読む能力があったようで、父は母と出会ってから、会社を興し商売もうまくいき出したようです。高度成長期だったので、何をやってもうまくいく時代でしたが、父はエンジンオイルのボトルキープというそれまでなかった商売を始めたようです。当然起業するにはお金が要りましたので、母がそれを出していたようです。
蒲生四丁目の家は、二間と台所だけの平屋でした。小さな庭があって、犬小屋がありました。ある日父と戻ると鍵がかかっていて家に入れませんでした。お風呂の窓が開いていたので、父が私をお風呂の窓から中に入れて、私がカギを開けたことがあります。また、怒られて家を飛び出し、犬小屋で寝ていたこともあるようです。泣きながら、二駅向こうのおばあちゃんの家に、向かって歩いていた時もあるそうです。まだ小さかったので、ひとりで行けるとは思わなかったようで、後ろから両親がついてきていたそうです。ところが、ちゃんとおばあちゃんの家までたどり着いたそうです。
子供のころは、近所の男のこと戦争ごっこをしていました。家にあるのもレーシングカー、刀のおもちゃなど女の子らしいものは持っていませんでした。見た目も男の子だったようで、ビキニを着せても、”僕ちゃん、いいのを着せてもらったね”といわれ、むくれていたようです。妹ができ、家が手狭になり、寝屋川に引っ越すことになりました。新興住宅街だったので、まだ家が建つ前に見に行ったのを覚えています。ここに台所、ここにおふろなどと、父が説明していたのを今でも覚えています。
男の子の友達しかいなかった私のことを心配したのでしょう、わたしは聖母女学院という女子校に入れられました。その後はあまり友達もできませんでした。早生まれで、成長も遅かったようです。結局中学3年から、公立に飛び出してしまいました。親の思いとは逆の生き方ばかりしてきたようです。学校は嫌いだったので、中学も高校もあまり行きませんでした。一浪して、医学部に入りましたが、やはりあまり行きませんでしたね。ぎりぎりの点数で卒業し、なんとか医師国家試験に通り、医者にはなりましたが。。。
母は、文字が読めません。それを改めて知ったのは、最近です。子供のころは、何かと代筆をさせられました。きょうこさんは字がうまいからと、おだてられてです。本当は、文字が書けなかったからなのですが。。。2年ほど前に、新聞は見ているだけだと気付きました。読んでると思っていたのですが、眺めているだけでした。去年の暮れに大腸がんになり緊急手術をしたのですが、人工肛門ができたので、それは大変でした。
母は、潔癖主義だったので、肛門とか便とか耐えられないと思いました。人工肛門は小腸で作ったので、出てくるものは便になる前の消化液でした。臭いも何にもない液体だったので、なんとか母は、慣れてくれましたけど。。。一時的なものだったので、3カ月ほどして、人工肛門はなくなりました。母には、がんだとは言っていなかったので、主治医の先生に、がんだと伝えたほうがいいと言われました。妹は母に知らせたくないと言いましたが、何かと書類にがんという病名が出てくるから、そのうちわかってしまいますよと言われました。”大丈夫です、字は読めませんから”二人で同時に返事をしていました。
最近になって、やっぱり読めないんだと思った事件がありました。血液検査の結果をたまには見せるようにと言った時、持ってきた書類が、領収書の明細だったのです。数字があるから血液の結果だと思ったようです。大笑いしてしまいました。
そんな彼女ですが、60歳を過ぎてから、英会話を習い出しました。abcもわからないのにです。。。いつも本を持ち歩いて、勉強をしていました。温泉に行っても暇になると本を開くのです。ときどき質問をされましたが、それにこたえてあげるとまた一人で勉強しだしていました。ところが、最近の質問は、日本語のほうの意味とか読み方に変わっています。本当に日本語を知らないのだなあと思います。純粋な日本生まれの日本人なのですが。。。
フランコの来日に合わせて、いろんな段取りをしましたが、通訳だけが困りました。私は少しは会話ができますが、仕事があるので、あまり相手はできません。いろんな人に聞きましたが、英語は苦手だと言われました。それで、結局母にお願いしたのです。通訳と言っても日常会話だけなので、大丈夫でしょう、静香ちゃんが同行してくれ、関空にフランコを迎えに行きます。大阪駅まで誘導して、雷鳥に乗せてくれと頼みました。切符の買い方がわからないというので、静香ちゃんを同行させることにしたのです。おばあさんと孫くらい離れている他人です。。。おもしろいコンビになりそうです。
親の学歴がとか、親の収入がと言って、自分の学歴の無さを親の責任にする人がいます。私はそうではないと思います。中学までしか出ていない父と文字が読めない母のもとで、私は大学院まで行きました。自分のやる気だと思います。資格を取ることはいいことでしょうけど、今は実力をつけるようにスタッフには話をしています。資格がなくてもやる気があれば何でも覚えていけますし、そういう真の実力がいつか評価されると思います。思いを同じにしたスタッフが徐々にクリニックに集まりだしました。資格があるないにかかわらず、自分ができることを探してやっていこう、そう話しています。他人ばかりが集まって、一つの大きな家族のようになりだしました。他人の子供でも、みなが教育を始めています。おせっかいなおばさんの集団なのでしょうが、それなりに楽しいです。